萌豚日記

映画/小説/漫画/アニメ/ゲームの感想と忘備録

【天気の子】少年少女の選択。新海誠の選択。

このブログを始めたのはシン・ゴジラ君の名は。を一週間内に続けて見た直後で、エモーショナルなテンションのままページ開設して「あー君の名は。以外のこと何書こう。まあ適当に書き留めておきたいことくらい見つかるだろ」と思っていたら見事に140文字以内で書き尽くせるレベルのことしか考えずに3年が経ちました。

 

ごきげんよう

 

新海誠監督が新作を公開してくれたおかげで、こち亀の日暮みたいな存在になってしまったこのブログに再びログインすることと相成りました。ありがとう新海監督。

 

ということなので映画見て心に写り行くよしなしごとをそこはかとなく書き留めていきます。まだ見てない人は早くブラウザを閉じて劇場に行ってくれ。

 

さあ皆さんご覧になった天気の子、どうでした?

ぼく?ぼくはねーなんか前作がアホみたいにヒットした代償というべき鑑賞を妨げるノイズがチラついたり、公開前から「シナリオで試行錯誤した」と語られてた通りもう少しブラッシュアップできたような気がしなくもなくもなくもなくもなくもない展開・演出にやや戸惑いながらも、ひたすらに眩しい主人公ふたりが心底愛おしく、尊く思えました。

 

物語の核はもう手放しで激賞したいんで、とりあえず気になった点から先に書いていきます。

 

前作ヒットの代償

まずこれね、もう公開前から「いやこれもう監督よりぼくのほうが確実に緊張してるだろ」ってくらいタイアップ付きまくってたんですけど、正直付きすぎ。序盤から出るわ出るわ実在の広告。店舗。商品パッケージ。バニラの求人トラック。えらい生々しいやつ来たなオイ。まあ一番生々しいのはタイアップとか関係ない歌舞伎町の客引き注意喚起アナウンスだったけれど。

いくら新海作品が実世界の精緻な描写といっても、スクリーンから溢れ出んばかりの情報量に打ちのめされます。ソフトバンク戦か。

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ヤフオクドームのバックネット

シナリオが終盤に差し掛かるとそういう異物感のある描写は薄れていくので、まあそんなに気にならないっちゃあならないんですけど。池袋でのセーフハウス潜伏の頃になれば某ホテルの受付とかホットスナックのパチモンとかが控えめに出てきたりして、「うーんこれだな。これくらいのパチモン感でいいんだよ」などとぼくの中の井之頭五郎が一人納得。いや、劇場に映画見に来てる人間に井之頭五郎を思い起こさせないでほしい。

極めつけは上映直前に挟まれるソフトバンク白戸家の専用CM。「お父さんがもう1か所映ってるよ!」って。誰がウォー〇ーをさがせ!をやりに劇場まで足を運んでると思うのか。複数回見る人がいるのを見込んでのCMだとは思いますが、せめて公開3週間後くらいからでよかったんじゃないですかね。まぁ僕はガン無視したんでノーダメージでしたけど。

そんなこんなで、次回作ではもう少し影響の少ないタイアップの仕方を考えてもらいたい。

でも下町のおばあちゃんの孫とかルミネの店員はいくら出してもいいぜ!

 

帆高くんの原動力が謎

若気の至りで家を飛び出した帆高くん。「帰りたくない」ということは分かったがいくらなんでも思考回路が苛烈すぎる。そら『原作はエロゲでひょんなことから居候に』とか『共通ルートはRADWIMPSをBGMに早回し』とかいう幻覚見る奴が出てくるわ。割と受け身の主人公が多い新海作品の中で、中々にアツい主人公でした。

 

あと都合よく手に入る拳銃。マクドナルドで紙袋からゴロっと拳銃出てきて帆高くんはびっくりしてたけど、いやぼく達もシナリオに唐突に表れた異物にびっくりします。

発砲という形で帆高の決意が表現されたのは上手いとは思うけど、そんなにポロポロ拳銃落ちてないよ、新宿。悲しいかな、新宿は北九州市ではないのだ。

ただ、拳銃の異物感とは言ったものの、これほど帆高の心情を表す小道具もなかったですけどね。

彼の心の叫びが、銃声となって響き渡る。

 

体制側の人間のキャラがエグい濃い

まず帆高くんを探してちょいちょい出てくるリーゼントの青年刑事さん。「えっリーゼント……?刑事なのにリーゼント?もしかして半グレでなんだかんだ背中を押すのかな?」と思いきや徹頭徹尾体制派。いや社会秩序の擬人化で出てきてるんだろうからそれでいいんだけど。でもなんでリーゼント?Why Sakuradamon people?

 

もう一人、はみだし刑事情熱系。人の好さそうな壮年男性。

でもどう聞いても声が平泉成

圧 倒 的 存 在 感 。

ぼくは柴田恭兵と一緒にセーラー服になった平泉成さんを思い出して笑いを堪えるのに精いっぱいでした。

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Sei Hiraizumi & Kyohei Shibata

二人とも基本的には社会秩序として主人公を阻む舞台装置なので、無理にアクの強さを出す必要はなかったんじゃないかなと思いました。そこにコミカルさは必要なのか。

ただぶっちゃけ2回目からは慣れた。

 

まあいいんだよ細けえことは!

伝奇モノ見て細けえこと言うのは寿司屋でパスタ食いたがってるみたいなものです。

そもそもこれってボーイミーツガールなんだから、君の名は。と同じく主人公のふたりに着目しなきゃ意味がないでしょ。

 

この映画の一番の見どころはいつもの新海作品と同じ。

 

相手に抱く、もっとも尊いひとつの感情。

天地を超え、世界すら変えたふたりの愛情。

 

忘れたふりで得る平穏な世界などクソ食らえ。”彼”は”彼女”がいる世界を選ぶ--

 

「原作はエロゲ」というムーブメント

ぼくはあの記事を見て、そこらの映画評論家のレビューよりよっぽど共感できると思いました。いやまぁ流石に「2週目の隠し要素として『須賀さんにビールをおごる』選択肢が出る」とかは病気の域だと思いますけど。

というのも、この映画は「帆高が陽菜を選びとる」物語だったから。

いや違うか。

「帆高と陽菜が、お互いのいる世界を選びとる」物語だったから。

 

陽菜の手を引いて走り出す。

スカウトマンに拳銃を突きつけ、引き金を引く。

陽菜の「雨が止んでほしいと思う?」という問いに、何の気なしに「うん」と答える。

刑事たちの隙を見て警察署から逃げ出す。

決意を持って鳥居をくぐる。

「世界なんて狂ったままでいい!」と叫ぶ。

 

 その選択肢のどれもが、エピローグの最大の"選択"に繋がっていく。 

みんなの世界を変えていく。

 

……というかあの記事読んでから上記以外にも色んなシーンで”見え”ちゃうんですよね。

あぁ!スクリーンに!スクリーンに!選択肢が!

 

刑事を撃つ

圭介を撃つ

>拳銃を投げ捨てる

 

あとクライマックスでみんなが助けてくれるのもエロゲ感ありますよね。

みんなの好感度ゲージ足りないと警察署から逃げきれなかったり、廃ビルで刑事に取り押さえられたりするんだきっと(ぐるぐる目)。

 

まあなんだ、要はやっぱり00年代のエロゲが文化の中心にある人間はそこから逃れられねえよって話 。ぼくもあなたも、多分新海監督も。

 

ふたりの背負うもの

エピローグで、完全に形を変えてしまった東京。
冨美さんは「元に戻っただけ」と受け入れる。
須賀さんは「世界なんて、元々狂ってるんだから」と笑う。
 
帆高は3年前に覚悟を固めた。
でもそれは”世界を壊す”という敵意ではなく、”陽菜を救う”ための向こう見ずな覚悟。
 
だから、何も知らない大人たちの、甘く優しい言葉が反響する。
「水没した東京はあるがままの自然の姿」
「誰のせいでもない」 
脳裏をよぎるそんな免罪符。
 
それでも彼は、彼女がいる世界を選んだことの代償が今の世界の形なのだと、僕たちが世界の形を変えたんだと自覚する。
 
世界のために今も祈りを捧げる姿を。
世界がその小さな肩に乗っているのを。
世界を背負ってなお共に生きることを選んでくれた彼女を、見た瞬間に。
  
陽菜を抱きとめた帆高は、その重みと暖かさに思わず涙するが、同時に自分を気遣う少女の“大丈夫”になると決意する。

その想いは相変わらずの尊さで、またしてもぼくは監督の見せる儚い夢物語に微睡んでしまう。高潔な理念も自己犠牲の精神もかなぐり捨てて、お互いを見つめ合うふたりがひたすらに眩しい。強く美しいエンディングの歌詞が心を打つ。

「物語の正しさ」とは何か。大ヒットの裏であらゆる意見と批判に晒された新海監督の選択がこのラストなんだと思う。万人ウケするかは知らないけれど、少なくともぼく一人は万雷の拍手で応えたい。
 
世界を背負った少女。
その少女を乗せて進んでいこうと、少年は力強く帆を揚げる。
 
雨に沈んだ東京で、二人がお互いの”大丈夫”になれることを、ぼくは確信している。
 
<了>

君の名は。における入れ替わりの時系列と整合性

先日「君の名は。」の4回目の劇場鑑賞をしてきました。これ半券7枚集めると女子高生に転生できるとかそういう特典無いんですかね?無い?現実は非情である。

 

というわけで4回劇場に足を運ぶまでにハマってしまったのですが、見返す内に作中の日付がやや気になったので軽く考察をしてみます。ネタバレを多分に含(以下略

ではまず作中で明記されていた時系列の整理から。

9月上旬    入れ替わり開始

9月5日   三葉の入れ替わり1回目(2013年は木曜、2016年は月曜)

9月7日   三葉の入れ替わり2回目(2013年は土曜、2016年は水曜)

9月9日   三葉の入れ替わり3回目(2013年は月曜、2016年は金曜)

9月12日 三葉の入れ替わり4回目(2013年は木曜、2016年は月曜)

9月13日 二人がお互いの入れ替わりに気づく

となっており、二人とも同じ日付に入れ替わりの日記を記していることから、おそらく日付基準で同日に入れ替わりが起きていることが推測されます。9月12日には三葉(瀧in)がデッサン中に机を蹴倒す事件が起きており(三葉のスマホ中の日記より)、翌日も三葉が登校していることから12,13日ともに平日であることが求められますが、これにも合致しています。ただし、最初の瀧in糸守の時の三葉in東京の描写がなく、劇中で初めて描かれる三葉in東京の入れ替わりが最初の瀧in糸守を受けて(「お前は誰だ?」の走り書きを見てから)のものであるため、二人の主観的な時間軸がどうなっているかは謎です。

 

初回  瀧。三葉へと入れ替わり。ノートに「お前は誰だ?」の走り書き

    三葉。瀧へと入れ替わり。描写なし。記録、外部との接触おそらくなし

二回目 瀧。三葉へと入れ替わり。日記を残す

    三葉。瀧へと入れ替わり。初回を受けて掌に「みつは」と記す

三回目 瀧。三葉へと入れ替わり。腕全体に「みつは?お前は何だ?」の伝言

    三葉。瀧へと入れ替わり。日記を残す

なのか、

 

初回  瀧。三葉へと入れ替わり。ノートに「お前は誰だ?」の走り書き

    三葉。瀧へと入れ替わり。上を受けて掌に「みつは」と記す

二回目 瀧。三葉へと入れ替わり。腕全体に「みつは?お前は何だ?」の伝言

    三葉。瀧へと入れ替わり。描写なし

なのかはいまいち判然としません。ただし後者ですと入れ替わり一回分前の瀧の身体へと三葉の精神が日付を逆行することになりますので、おそらくは前者でしょう。

 

続いて物語が動きだす、三葉(瀧in)のお神酒奉納シーン以降の時系列が以下です。

 

10月2日

(水)三葉(瀧in)、ご神体へ登山

(日)瀧(三葉in)、瀧への厳選リンク集を記す(デート中のスマホ画面より)

10月3日

(木)三葉、東京へ行く(10月4日の四葉の台詞より)

(月)瀧、デート。彗星を探すが夜空には満月のみ

10月4日

(金)三葉、学校を休む。秋祭り。彗星落下(彗星落下事件の記事より)

 

彗星は数日に渡って見えることが普通ですので、上記の期間中ずっと観測されていたことは別段おかしくはないかと思います。2013年10月3日に関しては三葉が四葉に東京行きを告げるシーンが登校中のため、平日で間違いないでしょう。テッシーの電話より10月4日も同様に平日だと推測できます。

問題になってくるのは平日に日中から登山した宮水一家と、同じく平日にデートを敢行した瀧&奥寺先輩カップルです。

やや強引ですが、10月2日のご神体への奉納は神事として学校を休んだとしましょう。10月3日が休校になる理由はいくつか考えられますが(都民の日や体育祭・文化祭の振替など)、奥寺先輩や展望台の人の様子から休日であると推察されるので、やはりここは設定ミスが原因でしょうか。都民の日も土曜なら振替ないのが普通ですしね。

設定ミスといえばもう一つ。奥寺先輩とのデートの後夜空の満月が画面に写されますが、月齢を考えると2016年10月3日は新月の翌々日なので2週間ほどズレが生じます。また、2013年10月4日の夜は彗星の横に三日月が見えますが、これも2013年10月5日が新月ですので矛盾が生じます。こちらに関しては、特定の月の表情を見せたいという演出ありきで考えるならば仕方ないことかと思いますが……

 

また個人的な解釈ですが、三葉(瀧in)がご神体登山の日に制服を着てしまったシーンや、三葉が瀧と奥寺先輩のデートに思いをはせ涙を流すシーンは平日と休日のズレを暗喩するものかと思います(後者については「瀧くんを好きになっていたから」との理由もあるかと思いますが、対となる瀧が無意識に涙を流すシーンは「彗星」と聞いて入れ替わりの不自然さに気づきかけるシーンであるため)。ですのでやはり曜日からすると2013年10月2日、および2016年10月3日は休日であると思っておく(思い込む)ことがリーズナブルな解釈かと。

 

因みに2013年と2016年の10月で無理のない設定を考えるとすると以下のようになります。

10月14日

(月)体育の日。三葉(瀧in)、ご神体へ登山

(金)瀧(三葉in)、瀧への厳選リンク集を記す

10月15日

(火)三葉、東京へ行く

(土)瀧、デート。彗星を探すが夜空には満月のみ

10月16日

(水)三葉、学校を休む。秋祭り。彗星落下

この日程ですと、三葉(瀧in)がご神体登山の日に制服を着てしまった(=平日と勘違いした)こと、三葉が入れ替わりの不自然さを無意識下で感じ涙を流したことの説明もつきますし、2016年10月は16日が満月なので15日に瀧が見上げた月とほぼ一致させることが出来ます。2013年10月16日は三日月ではないのでこちらを整合させることはできませんでしたが。

作中あれほどまでに「10.4」が出てくるので何かしらの強い理由があって日付を設定しているとは思うのですが……

 

結論として言えばちょっと脇の甘さを感じる日付設定なのかなあ、と思わざるを得ません。しかし当然のことながら、私の気づいていない理由によって上記の日付を設定した可能性が十分あります。複数回見る方はこういった時系列や作中の日付にも目を配り、なぜこの日付を設定したのか考察してみると面白い発見があるやもしれません。

万が一設定ミスであったところで、この映画の素晴らしさが1mmたりとも減衰する訳ではないと考えておりますのであしからず。SFを楽しむ映画でもないですし、細々とした設定に気を配らず、二人の甘く切ない夢に酔いしれるのが大正解でしょう。

 

<了>

 

君の名は。 Another Side:Earthbound に見る宮水神社の背景

君の名は。」のスピンオフである「 Another Side:Earthbound」。 

その第4話では三葉の両親の馴れ初めが語られるのですが、ここで二人の会話から宮水神社の由来や神社に伝わる伝承についても言及されます。本記事ではその内容について考察を行っております。何の学術的根拠もない駄文ですので、そういった非建設的なお話がお好きでない方はお読みにならないことをお勧めします。

また、当然ですがスピンオフを未読の方はネタバレにご注意ください。

 

倭文と和歌

三葉の両親が交わす会話から、宮水神社の祭神が倭文神・建葉槌命(タケハヅチノミコト)であると明かされました。宮水神社の祭神が倭文神であることで、瀧くんが受け取った組紐を腕輪にしていた理由がなんとなくですが予想がついてきます。

倭文というのは日本古来の織物を指す言葉で古典にはしばしば登場するのですが、万葉集にも倭文を用いて読まれた歌が十首程度存在します。新海監督は「言の葉の庭」でもお馴染みの通り万葉集に精通された方ですので、以下のあたりの和歌がモチーフになっているかもしれません。

 

しつたまき 数にもあらぬ我が身もち 如何でここだく 我が恋ひわたる

安倍虫麻呂 万葉集第四巻六七二

 

たまき(手纏)とは腕輪のこと。粗末な腕輪のように大したことのない自分が、なぜあの人をここまで恋しく思い続けているのだろうか、といった意味の歌。倭文神への祭祀として編まれた組紐を、作中で腕輪とした由来はここからではないでしょうか。虫麻呂は身分の違いによる届かぬ恋を憂いてこの歌を詠んだ訳ですが、時間と距離に引き裂かれた瀧くんと三葉を思うと、どこか虫麻呂の恋と通じるものを感じます。

 

伊勢物語にも過去の関係を今一度、といった意味で歌われた次の歌があります。

 

古の しづのをだまき 繰りかへし 昔を今に なすよしもがな
在原業平 伊勢物語三二段

 

静御前本歌取りされた有名な歌。昔の織物の糸を巻きとった苧環から糸を繰りだすように、昔を今に繰り返す方法はないものか、といった意味の歌です。こちらは糸守を訪ねた瀧くんの思いの代弁としてはこれ以上ない歌でしょう。

このあたりの和歌から構想を広げていった結果、宮水神社の祭神を倭文神と設定するに至ったのかもしれませんね。

 

祭神と申立の謎

スピンオフでは三葉の父である俊樹から、「繭吾郎の大火で焼失した本来の祝詞(作中では申立)に代わって借用した祝詞が出雲系であることから推察するに、元来糸守の人々が信仰するのは天香香背男(アメノカガセオ)であったが、彗星の落下により星神である天香香背男への信仰を捨て、かの神を征服した建葉槌命を信仰するようになった」という仮説が提示されます。

それに対し、母・二葉からは「古来より宮水には機織りの祭祀があった」こと、つまりは隕石落下以前より建葉槌命が祭神であったことが暗喩されます。

スピンオフ第3話においても四葉に語り掛けた宮水のご先祖様が「宮水は倭文神の末裔」と明言することから、彗星落下以前より天香香背男が祭神であったことは説明がつきません。

 

ではなぜ宮水神社で用いられる祝詞が出雲系なのか。スピンオフを通してもこの真相は語られないままなのですが、非常に興味深い話でしたので宮水神社の祝詞の由来について考察してみたいと思います。

そもそも日本書紀では天香香背男は天津神として扱われておりますので、「まつろわぬ神としての性質から祝詞が出雲より借用された」とする俊樹の説明にはどうも違和感があります(ご神体が天香香背男を暗示する”龍神”山なので、かの神が畏怖される対象であるのは確かか)。では何が出雲と宮水神社を結びつけるのでしょうか。

ここで祭神である倭文神に注目すると、伯耆の国にも倭文神を祭神とする倭文神社が存在します。こちらの神社では倭文神と共に下照姫命(シタテルヒメノミコト)という神を祀っておられますが、下照姫命は出雲大社の祭神・大国主の娘であり、機織りの衰退した当地において大正時代までは倭文神社主祭神だと考えられているほどでした。

つまりは申立焼失のため、宮水と同じ倭文神の末裔が創建した倭文神社から祝詞を借用したが、当時の主祭神は下照姫命であったために借用元の倭文神社では出雲系の祝詞が使用されていた。

上記は宮水神社と伯耆倭文神社を結びつける必要性が感じられなかったため再考察しました(9月7日追記、修正)。

やはり出雲系の祝詞が天香香背男に向けたものであるとし(天香香背男が天津神であることはこの際無視します)、天香香背男を指すであろう”龍神”山がご神体であることを考えると、宮水神社は表向きとしては倭文神を祀る一方、裏の面として天香香背男を祀っていると考えられます。

ここから想定されるのは以下のような出来事です。

1200年前、古来より倭文神を祀る糸守の地に彗星が落ち被害を生む。これを鎮めるために隕石の一部を中心とし山全体をご神体とする、つまり天香香背男を同時に祀る。この時、祝詞も国譲りに抵抗する神・天香香背男を鎮めるためのものとして出雲系のものを取り入れた。祝詞は諏訪において建御名方神タケミナカタノカミ、国譲りに抵抗した神であり天香香背男と同一視されることがある)に対して奏上するもののように「申立」と呼称するようになり、奉納する織物も蛇や龍を模した紐状のものとなった。しかしながら表向きとしては日本書紀の逸話通り、当地において天香香背男を倭文神が征服したこととし、建葉槌命を祀る。

これが、宮水神社に出雲系の祝詞が流入した真相ではないでしょうか。

 

 余談

建葉槌命と天香香背男の登場から思い出したのが、2004年に発売された和風伝奇ADVのアカイイトです。詳しくは紹介しませんが、「アカイイト」もまた日本神話をモチーフとしたADVであり、作中でこの二柱が重要な要素を果たします。

君の名は。」では天香香背男の「カガ」について「蛇」の意との解釈をとっているようですが、このあたりも「アカイイト」を彷彿とさせるところでした(一般に天香香背男の「カガ」は「輝く」の意)。「君の名は。」におけるこういった日本神話的バックグラウンドがお好きな方は是非とも「アカイイト」をプレイすることをお勧めします。

また、宮水神社では天香香背男を蛇から転じて龍とみなしているようですが、ティアマト彗星のティアマトもまた、蛇または龍の姿で描かれることのある神です。某ゲームの某宝具で天地乖離された方として有名ですね。細かいことを言ってしまうと本来の彗星の命名規則から外れた名前ですが、一貫して彗星を龍神として描写していることが分かります。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。スピンオフで語られた種々の設定は、映画の主題であるボーイミーツガールとは関係のないもののためか本編ではほとんど語られることがありませんでしたが、調べてみるとなかなかどうして非常に細かな設定が成されていることが分かります。このような神話を基にした細かい設定も「君の名は。」の魅力を高める一要素になったのではないでしょうか。

 

<了>

 

君の名は。のラストに関する一解釈

相変わらず「君の名は。」のクライマックスに関する記事ですのでネタバレ注意です。

 分かりにくかったんで最後の方編集しました(9/14追記)。

君の名は。のレビューを読んでいく中で、おや、と思ったのがこの対談記事でした。

 

 

www.excite.co.jp

 

www.excite.co.jp

 

記事を読んで思ったのは「ラストの解釈について齟齬があるなあ」ということ。

端的に言えばこのお二人の主張は「ラストで二人が出会わないで欲しかった」なんでしょうけど、それってこの映画の主題から外れてないのかなと思わざるをえない。

確かに新海監督が一番輝かしい二人の出会いをラストに設定したことはエンタメ的な判断でしょう。ご都合主義なのも否定はしません。

しかしながら、”目に見えない運命”ってものを”忘れてしまった夢”という形で描いたのが今作の主題だと思うので、二人の出会いそのものを否定しちゃうのはなんだかなあ、と。

あの入れ替わりが二人の運命ですらないただの夢になって、単純に町の人を災害から救うお話になっちゃいますし。それは本末転倒というか、主題が逆じゃないでしょうか。

 

これが、「カタワレ時と別れを経て山頂で立ちすくむ瀧くんだが、映画と異なり記憶を失くしてはいない。そこへ3年後の10月4日に瀧くんが山頂にいることを知る三葉(つまり彼女も記憶を失くしていない)がやって来て二人は再開する」という内容だったなら歴史修正であり安易な着地点、という批判もわかるのですけれど……(それでもぼくはハッピーエンドジャンキーなのでそのラストも受け容れると思う)。

 

これに関して言えば、運命の正体とでも言うべきものについて言及する東浩紀氏の以下のツイートが興味深く感じました(ぼくは「あの作品は運命の相手と結ばれる作品では【なく】」とまでは言い切れませんが……)。

 

 

センチメンタルな別離の瞬間だけが新海監督の良いところということではない筈です。細かな心情描写で演出された愛しく尊い、恋をしている瞬間こそ、新海監督の真骨頂だと思います。今作におけるその儚い瞬間とは、今や二人が忘れ去ってしまった夢。将来出会うべき二人の間に存在する運命。

 

クライマックスの二人の邂逅。観客は、神の視点からこの出会いの背景に運命があると知っている。これまで新海監督が描いてきた様々なテーマを乗り越えて結ばれたと知っている。だからこの物語は観客にとってはこれ以上ないハッピーエンド。

けれど当の二人にしてみれば湧き上がる感情のまま出会っただけ。一目惚れと言っていいかもしれない。つまりラストのあの瞬間こそが運命の出会い。

 

普通の作品って二人の運命の出会いが最初にありますよね。二人は(脚本による)ドラマチックな物語を経ることで惹かれあっていく。二人はそうして経験した物語を、相手に重ねて想うことが出来る。つまり運命(によって得た物語)が、互いを想いあう二人の将来を約束している。

でもこの作品において、本編のほとんどは二人の背後に存在する、運命そのものを描くのみなのです。運命によって引き合わされた二人。しかし二人のその後については頑として描写をしない。運命が二人の将来を約束するかは誰にも、神の視点を持つ観客にさえ分からない。

ある意味で従来の運命の否定のようで、まさに記事中で語られる「甘ったるくナルシスティックなようでいてその実すごく冷たく現実を見据えている新海誠」が描く運命像だったと思います。

 

<了>

【君の名は。】いつまでも眺めていたくなる青春の夢

先月26日から公開の始まった新海誠監督作品の最新作、「君の名は。」の感想です。

感涙というよりは「良いものを見た……」の感情が強く、涙が出てこないほど爽やかな映画でした。眩しい、という言葉が最もよくこの感情を表しているような気がします。

氏の監督作品の中で「星を追う子ども」だけは未だ見ていなかったのですが、劇場で本作がこれまでの作品の延長線上にあると感じたためにダッシュでツタヤに向かいました。皆さんも過去作をご覧になり、再び劇場に足を運べば新たな発見があるかもです。

 

ネタバレを多分に含みますので、興味があるけど未見という方はブラウザの戻るボタンをクリックしてT○H○シネマズとかM○VIXとか1○9シネマズとかのHPでチケット買って見に行かれることを強くお勧めします。というか絶対後悔します。

ということで以下感想(ブログに不慣れなもので、「シン・ゴジラ」の感想を書いた際に敬体が使いづらかったため今回から常体で書かせていただきます、文体のせいでめちゃくちゃ偉そうになってますがごめんなさい)。

 

 

 

本当に爽やかな余韻が残る作品だ。

アニメ映画で例えるなら10年前、細田守監督の「時をかける少女」を見た時に抱いた感覚に近い。鑑賞後、いつまでもこの世界に留まっていたいという欲望に支配される。

 

神木くんもインタビューで言及していた通り、空や光をはじめとする背景美術の美しさは本作においても健在。アニメーターでは作画監督の安藤さん、キャラデザの田中さんの他には作画監督に黄瀬さん、原画に沖浦さん松本さん橋本さん。OP担当に錦織さんなどビックネームをちらほら見かけた。作画面から見てもこれまでの新海監督の作品の中で図抜けてキレイに動いていたと思う。何しろ人物の動きが恐ろしいほど生々しい。クライマックスでコケて転がって立ち上がって走り出すとことかね。

劇中曲もボーカル曲がOP,EDあわせて4曲という変則的な構成だが、どれも詩、曲調が場面場面にぴったり。RADWINPSというグループを見る目が正直変わった。

 

さて、物語の話である。

主人公は二人とも非常に魅力的で非現実的なまでに美しいけれど、どこか等身大の感情移入ができる。美しい背景描写と相まって、活き活きと登場人物が銀幕で踊る。

それでいて記号的にならない程度の、ほどよいキャラクター性がある。前作は大人びたキャラデザと色彩だったが、本作は田中さんのポップなキャラデザのおかげもあってか、丁度良いくらいにコミカルなのだ。瀧くんはとりあえずおっぱい触るし。「言の葉の庭」の孝雄くんとか15歳であの凛とした立ち居振る舞いだったのに。しっかりしろ17歳男子。でもそのストレートな表現が全然いやらしくなくて、爽やかに入れ替わりの現実を観客に受け入れさせる。口噛み酒とか間接キスを想起させてまた甘酸っぱい。気にしちゃうよね、17歳なら。

新海監督と言えば背景や光の表現が取り上げられがちだが、個人的には、冒頭から丁寧にじっくりと登場人物たちの心情を映像やセリフで観客に実感させていくスタイルこそが代名詞だと思っていた(実際アバンはゆったりと主人公二人が詩的に語るというものだったので、本作も段々とテンポを上げていくのかと思っていた)。それ故にこのコミカルさ、テンポの良さには舌を巻いた。加速度的に物語が展開していく。性差の意識、人格の豹変という男女入れ替わりモノお決まりの展開を消化しつつ、お互いのバックグラウンドを通して惹かれあう二人。その二人の美しさ、純粋さに惹かれる観客。

 

そして、あの時間の断絶に直面する。

 

今にして思えば「曜日の違いとか当時のニュースで入れ替わり先が過去(未来)だと気づくのでは?」と思ってしまう。これは現代での3年の速度を考えれば当然の疑問であって、SF的考察をするなら目を瞑るしかない。一応ご神体に向かうとき(おそらく休日だろう)に学校へ行こうとする瀧くんの演出で、曜日のズレについてはカバーしていたりするけれど。

しかしながら断言できるのは、劇場ではそんなことを考える暇なんて皆無だったということ。既に頭も心も二人に奪われていたからだ。三葉とのほほえましい逢瀬を期待して瀧くんの旅を追う我々は、しかし絶望に直面する。あの時瀧くんと一緒に味わった喪失感が、どうでもいいSF的考察を頭から蹴りだしていく。世界観に絶対的なリアリティが欲しければ現実という映画を見れば良いのだ。観客はここから「なんとかして二人の邂逅を」と願いながら食い入るようにスクリーンを見つめることになるだろうし、事実ぼくはそうなった。

 

その後訪れた一時の逢瀬が三葉に勇気を与え、無事災厄の手から逃れることに成功する……のだが、誤解を恐れず言ってしまえばここの描写は適当である。適当とはまさに、必要にして十分、その意の如くである。ボーイミーツガールには直接関係のない部分なのでドラマチックな説得や避難誘導は描かず、必要最低限、何があったか分かるようにだけ描写したのだろう(町長の前に立つ三葉、当時を推察する週刊誌記事など)。

偶然本作を見る直前に庵野秀明監督作「シン・ゴジラ」を見る機会があった。どちらも印象に残る素晴らしい映画だったが、震災をモチーフにした映画として見ると陰陽のように好対照なのが興味深かった。

庵野監督は震災に対面した人々がどう行動するか、というハード面を描いた。対して、新海監督は震災に対面した人々が何を想うか、というソフト面を描いた。本作で描かれるのは、崩れる日常を突きつけられた人間が抱く「大切な人と、まだ一緒にいたい」という一途な願望である。

糸守でのクライマックスは隕石からの避難ではない。誰からの言葉なのかも分からない、けれど大切な人からの大切な言葉。これを受けた三葉の希望、執念こそがクライマックスである。

立ち上がって走り出す三葉のシーンは勝ち確定演出みたいなもので、その後にこまごまとした避難描写などを入れても蛇足にしかならなかったろう。まだ会えぬ大切な人を想い走り出す彼女の姿はあまりにも、ただひたすらに美しかったから。

 

そして震災から8年が経つ。思わず秒速のラストが思い出される。不安が鎌首をもたげてコブラツイストである。歩道橋ですれ違うシーンなんて、いつボーカルが入ってくるかヒヤヒヤしながら眺めていた。センチメンタルな結末が新海監督の常だったので、これまでの作品に触れてきたファンは不安も一際だったと思う。

それだけに二人が振りむきあった時には思わず外人4コマのようにガッツポーズしてしまった。隣に座っていたお姉さんは不信に思わなかっただろうか。いや、お姉さんもそんなことは気にならないであろうほどのカタルシスと安堵があの結末にはあった。

 

文句のつけようのないハッピーエンド。失敗を恐れずに、これまでと趣の異なる結末を選んだ新海監督の決意はいかほどだろうか。デビューから続く精緻な心情描写や背景美術、そして作品を経るごとに発展していく構成力が、この映画に魅力を与えたことは言うまでもないだろう。それに加えて本作は、エンターテイメントとして底抜けに幸せな結末を見せつける。監督の集大成という謳い文句通りに、これまでの作品のテーマを伸びやかに跳び越えていく。

時空に引き裂かれる二人を描いた「ほしのこえ」。

過去の約束を果たす苦闘を描いた「雲のむこう」。

時間とともに失われていく想いを描いた「秒速」。

大切な人を取り戻そうともがく人間を描いた「星を追う子ども」。

二人の純粋な心の叫びを描いた「言の葉の庭」。

君の名は。」で主人公二人はその全てを見事に経験し、なおも結び合って見せた。

 

本作のラストは、奥寺先輩の「ちゃんと幸せになりなさい」の言葉通り、我々が幸せになるため見せられた幻想である。ご都合主義の産物でしかない。

それでもあの日あの階段で二人は再開した。彼らは奇跡的にも巡り合い、幸せになるためのスタートを切ったのだ。幻想だろうと構わない。誰もが望む甘く尊い夢物語を見せてくれた二人と新海誠監督に、心から感謝したい。

 

<了>

君の名は。を楽しむために

芸能リポーター君の名は。は2010年代最高の劇場アニメ!」

ぼく「2010年代劇場アニメの層の厚さナメてんのか」

 

君の名は。鑑賞後~

ぼく「2010年代最高の劇場アニメだ……(涙」

 

ということでネタバレを恐れて日曜に君の名は。を見てきました。

やーもう恐ろしく堪能してしまった訳ですが、ちょっと色々頭がまとまらずまだ感想が書けておりません。

とりあえず自分が君の名は。を楽しむ為にやっといて良かったこと(やらないで良かったこと)を書き出しておきます。

 

1.ネタバレを見ない

いやもうこれに尽きます。すべての映画を楽しむための準備と言ってもいいかもしれませんが、君の名は。に関しては本当にこれ大事です。事前情報は予告映像で十分。

検索エンジンは当然のこと、Twitterで「君の名は。」とサーチするのもオススメしません。このご時世、瞬く間に感想がサジェストされます。もし私が劇場行く前にこれやってたらと思うとぞっとします。

 

2.小説版・スピンオフを読まない

同様の理由で小説版も劇場鑑賞後に読むのが吉です。スピンオフに関しては本編見る前に読む人はいないとは思いますが……というかこれ(小説版)は劇場公開前に世に出しちゃダメなやつでしょKADOKAWAさん……

 

3.過去作を見ておく

詳しくは感想に書きますが、今作は本当に新海誠監督の集大成でした。ということでこれまでの過去作も先に見ておくことをオススメします。

……まあぶっちゃけまだ僕も星を追う子どもだけは見たことないです。

上二つに比べればそこまで重要ではないかと思います。というか過去作見てまた劇場行けば良いだけですしね?

 

以上です。まあ何はともあれ友達からネタバレくらって大喧嘩するよりダッシュで劇場へGO!をオススメしますって話。

 

<了>

【シン・ゴジラ】初代ゴジラの庵野流リビルド!

去る8月24日に庵野秀明監督作、シン・ゴジラを見てまいりました。

これまでゴジラシリーズは初代しか見たことがなく、「早くエヴァ作ってくれ~」の思いもあり、公開から一月が経過していたのですが、Twitterでの評判がやたら良かったため劇場へ足を運びました。

 

鑑賞後「めちゃくちゃ面白い!」という思いと「自分の感想を書きだしておきたい!」という思いが芽生え、Twitterではその性質上映画を未見の方の目にも入ってしまうということで、すぐ目につかないチラシの裏的場所へ感想を書き殴ってしまおう、という経緯でこのブログを開設しました。

映画を劇場で見るのは年に数作程度ですが、今後も琴線に増える作品があればこちらに適当な駄文を垂れ流していこうかと思います。

 

さて、シン・ゴジラです(作中の展開などに触れるので未見の方はここでお引き返し下さい)。

 

鑑賞前の事前情報は知人からのインプレッションである「エヴァっぽい」、この一文のみでした。

予告映像すら全く見ずに劇場に突撃したわけですが……結果から言えばこれが功を奏しました。二度の衝撃を味わうことができたのです。

 

一度目の衝撃は、東京湾内に出現したゴジラが多摩川を遡上、蒲田に上陸し初めてその全容を観客に見せるシーン。

 

……きもちわるいのです、すごく。

 

ゴジラといえば初代しか見たことのない私にとっても、かの大怪獣のビジュアルは黒々とした肌のいかめしい竜が直立しているイメージ。おそらく日本国民の誰もが持っているであろうイメージです。

しかしご存知の通り、本作のゴジラはイグアナの胴体にラブカを接続したような図体で登場。黄色がかった肌に赤い体液をだらだら垂れ流すエラがあり、目はうつろ。二足歩行はするものの地を這うような不気味な前傾姿勢で、逃げ惑う群衆を追いかけます。

 

鑑賞後にざっと公式HPやPVを見たところ、この第二形態の存在は全く無し。秘匿されています。

ゴジラという存在のイメージが固定化されていることを逆手にとり、スクリーンの中の群衆と同じく「巨大不明生物が現れた恐怖、衝撃」を味わされたのです。

 

単にエヴァっぽく描いたゴジラではなく、リアルなパニックムービーとしてのゴジラ

これが庵野ゴジラ

 

と開始早々座席で一人衝撃を受けていました。

 

さて、肝心のゴジラは蒲田から都心部へと移動、その途上で進化(生物学的には変態?)し、さらにその後海中へと逃避。ゴジラの一連の行動の裏では甚大な被害をもたらすゴジラに対しどう対処するか、について政府高官たちが会議を行うのですが……ここで二度目の衝撃。

 

あれ、これ震災映画じゃね?

 

最初にこの映画のモチーフが3.11だと気づかされたのは金井内閣特命担当大臣が口にする「想定外」というセリフでした。このセリフは劇中何度も使用され、いやがおうにも5年前の悲劇が思い出されます。他にも防災服で会見を行う内閣総理大臣ゴジラの歩行ルートに一致して上昇している都内各地のモニタリングポスト、それを発見し色めきたつSNS。そして被災後すぐさま復旧し、何事も無かったかのような東京の経済活動や人々の暮らし……

全ての演出があの3.11直後の東京を思い起こさせます。当時私は東京にいましたが、劇場では正にデジャヴを見ているようでした。

そしてここに来て、初代ゴジラのテーマが想起されます。

原水爆の脅威。

では3.11をモチーフとしたシン・ゴジラのテーマは。

当然ながら、これは原発事故の脅威でしょう。

 

「もしゴジラが現代東京に現れたら」というパニックムービーに、福島第一原発事故を絡めてきた!というのが私にとっての第二の衝撃でした。

 

劇中では再度出現したゴジラ放射能流で東京中心部を焼き払う大暴れ。オーバーヒートで停止したゴジラの裏では凍結作戦が企画、遂行。犠牲を払いながらも作戦はなんとか成功を収めるのですが、このゴジラ=福島第一原発の想定は非常に徹底しており、

・「ゴジラを倒せ(原発止めろ)」の国会前デモ

・対処としての”凍結プラン”

・対ゴジラ最終決戦兵器(アメノハバキリ)は福島第一原発事故でも注水に用いられたコンクリートポンプ車

・凍結後も日本国がアンダーコントロールにおかねばならない

など、数多の類似点が挙げられます。

 

映画全編を通してみれば庵野監督お得意のミリタリー描写、特撮は圧巻。演出の節々に見られるエヴァっぽさにもニヤリ(BGMにはおなじみEM20、初代リスペクトか伊福部さん楽曲も多数。セリフ回しもエヴァっぽくて政府内部には一体何人の日向マコトみたいな喋りをする人間がいるんだ……!)。

政府閣僚や官僚との会議シーンも非常に「それっぽく」作られていてリアルだったのですが、何よりも原水爆の脅威を示した初代ゴジラのリビルドを、テーマを原発事故に代え敢行したことに感動を覚えました。

 

虚構の存在であるゴジラを通して、日常を破壊しかねない脅威が迫った時人々(政治家、官僚、自衛隊、公安、一般人などなど)はどう行動するのか、についてシン・ゴジラは精緻に描いています。やたらカッコよく、ではありますが。

 

一方で、原発の是非そのものに対する本作のメッセージは玉虫色で、見る者によって好きに解釈が可能でもあります。最後のシーンも思わせぶりなゴジラの尾のカットですしね。

個人的には、ラストで矢口副本部長と赤坂内閣官房長官代理の語った「スクラップアンドビルド」が本作で制作チームの述べたかったことだろう、と。

どうあっても今後進んでいくしかない、という庵野監督なりの現代日本に対する応援歌なのかな、と感じました。

 

まとめ

現実VS虚構の謳い文句の通り、ひたすらリアルに作り上げたパニック映画でありながら、原水爆の脅威をテーマにした初代ゴジラと同じくしっかりとしたメッセージ性を持たせていた良作だと思います(ちょっと「日本という国は~~」と誇らしげに評価するくだりでこっぱずかしくなるシーンもありましたが……)。
久々に邦画を見ましたが非常に楽しめました。庵野監督、エヴァも楽しみにしておりますよ?

 

<了>