萌豚日記

映画/小説/漫画/アニメ/ゲームの感想と忘備録

君の名は。のラストに関する一解釈

相変わらず「君の名は。」のクライマックスに関する記事ですのでネタバレ注意です。

 分かりにくかったんで最後の方編集しました(9/14追記)。

君の名は。のレビューを読んでいく中で、おや、と思ったのがこの対談記事でした。

 

 

www.excite.co.jp

 

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記事を読んで思ったのは「ラストの解釈について齟齬があるなあ」ということ。

端的に言えばこのお二人の主張は「ラストで二人が出会わないで欲しかった」なんでしょうけど、それってこの映画の主題から外れてないのかなと思わざるをえない。

確かに新海監督が一番輝かしい二人の出会いをラストに設定したことはエンタメ的な判断でしょう。ご都合主義なのも否定はしません。

しかしながら、”目に見えない運命”ってものを”忘れてしまった夢”という形で描いたのが今作の主題だと思うので、二人の出会いそのものを否定しちゃうのはなんだかなあ、と。

あの入れ替わりが二人の運命ですらないただの夢になって、単純に町の人を災害から救うお話になっちゃいますし。それは本末転倒というか、主題が逆じゃないでしょうか。

 

これが、「カタワレ時と別れを経て山頂で立ちすくむ瀧くんだが、映画と異なり記憶を失くしてはいない。そこへ3年後の10月4日に瀧くんが山頂にいることを知る三葉(つまり彼女も記憶を失くしていない)がやって来て二人は再開する」という内容だったなら歴史修正であり安易な着地点、という批判もわかるのですけれど……(それでもぼくはハッピーエンドジャンキーなのでそのラストも受け容れると思う)。

 

これに関して言えば、運命の正体とでも言うべきものについて言及する東浩紀氏の以下のツイートが興味深く感じました(ぼくは「あの作品は運命の相手と結ばれる作品では【なく】」とまでは言い切れませんが……)。

 

 

センチメンタルな別離の瞬間だけが新海監督の良いところということではない筈です。細かな心情描写で演出された愛しく尊い、恋をしている瞬間こそ、新海監督の真骨頂だと思います。今作におけるその儚い瞬間とは、今や二人が忘れ去ってしまった夢。将来出会うべき二人の間に存在する運命。

 

クライマックスの二人の邂逅。観客は、神の視点からこの出会いの背景に運命があると知っている。これまで新海監督が描いてきた様々なテーマを乗り越えて結ばれたと知っている。だからこの物語は観客にとってはこれ以上ないハッピーエンド。

けれど当の二人にしてみれば湧き上がる感情のまま出会っただけ。一目惚れと言っていいかもしれない。つまりラストのあの瞬間こそが運命の出会い。

 

普通の作品って二人の運命の出会いが最初にありますよね。二人は(脚本による)ドラマチックな物語を経ることで惹かれあっていく。二人はそうして経験した物語を、相手に重ねて想うことが出来る。つまり運命(によって得た物語)が、互いを想いあう二人の将来を約束している。

でもこの作品において、本編のほとんどは二人の背後に存在する、運命そのものを描くのみなのです。運命によって引き合わされた二人。しかし二人のその後については頑として描写をしない。運命が二人の将来を約束するかは誰にも、神の視点を持つ観客にさえ分からない。

ある意味で従来の運命の否定のようで、まさに記事中で語られる「甘ったるくナルシスティックなようでいてその実すごく冷たく現実を見据えている新海誠」が描く運命像だったと思います。

 

<了>